映画・小説の感想棚

映画、小説、アニメなどの感想。作品によって文章量はまちまち。土日正午を中心とした不定期更新。

二度寝で番茶

夫婦の脚本家、木皿泉の、対談エッセイ。

木皿作品で何が好きかっていうとやっぱり、「自分はこれでいいんや!!」と、迷っていても、自分を肯定させてくれるところ。
それはやっぱりドラマを作っている木皿さん自身が、世間の目や価値観よりも、自分の信じてるものを信じてるからじゃないかな、と思う。
学生の時も、OLの時も、売れてない時も、売れてからも。
売れてない時に、自分を信じるって大変やけどな。
対談のお気に入りの部分、抜粋する。
創作に関することばっかりやけど。

夫「余分なものは必要ですよね。」
妻「我々のドラマは、ほかの人のと比べると、余分なものが多いっていわれる。でも、自分たちは全部必要だと思って描いてるんですけどね。」
夫「その人らしさというのは、余分なものからにじみ出ますからね。」

夫「かっぱさん(妻)は、そこまでして、何を一番書きたいんですか?」
妻「イメージかなぁ。口では説明しにくいんですけど、人とおしゃべりした後に、あー楽しかったとか、なにか元気出たなぁとか、ほんわかしたなぁとか、あるじゃないですか。話した内容は忘れたけれど、なんかよかったなぁ、またあの人に会いたいなぁとか思うこと。そういうイメージを残すようなドラマを書きたいんですよね。」

夫「かっぱさんの口癖、一生懸命やってもできないものはできないって。それも、その時の経験からきてるんですか?」
妻「一か月に一回、課題が出るんです。毎日、土日も学校に出てこつこつ描いている人もいれば、突然やってきて二日ほどで仕上げてしまう人もいるわけ。で、こつこつの方がいいものができるのかというと、そうじゃない。二日の方が教授に評価されたりするわけです。不条理だなァと思うけど、物をつくるというのはそういうことなんですよね。どんなに頑張ってもダメなものはダメ。厳しいです。」

妻「私も、ドーナツ屋で四十五分のドラマの最初から最後までを一瞬にして作ったことがあります。自分の実感では二分ぐらいと思ったけど、実際はもっと短かったかもしれません。」
夫「その時のことが忘れられず、ドーナツ屋で仕事をしてたんですね。」

妻「『かもめ食堂』はコミュニケーションを拒絶した店だけど、最後はフィンランドの人たちが食べに来てくれるんです。それは、フィンランドの人の方からコミュニケーションをとってくれたから。映画だから、ご都合主義で終わっている。たぶん、日本じゃそういう展開にはならない。教室の子どもは何の解決もなく暴れたままで、誰もコミュニケーションをとれないままチャイムが鳴って、はいオワリ、ということになるんでしょうね。」

妻「女の人は、諦めないと生きていけないことが多いんじゃないですかね。男性は、変わらないと思い込んで進んでいかなければやっていけない。」


妻「ひょっとすると私たち、洗練されることを求めるあまり、人間的な部分を振るい落としてるのかな。今のドラマもそういう人間臭い部分を捨ててるのかもしれない。わかりにくかったり、へんだったり、毒があったり、おぞましかったりするような、そういう中にひょっとすると面白さの芽があるのかも。」

夫「自分なりの洗練ねぇ。自分が面白いと思うところは、たとえ「ベタ」といわれても残してゆく勇気みたいなものがいるでしょうね。」
妻「気持ちのいいものばかりに囲まれて暮らすのは幸せだけど、気がついたら誰かが考えた幸せのなかだった、というのは、ちょっと辛いと思う。私は、洗濯していない自分のにおいのついたどろどろのシーツにくるまって、一日中好きな本を読むと幸せを感じるけど、そんなことはドラマでは描いてないでしょう?今の若い人は、そんな自分だけが発見した幸せを、ほかの人はそうじゃないだろうなァ、俺変態かも、と後ろめたく思いながら抱えているんじゃないかな。」

妻「自分をダメだと認められる人は、自分を心から肯定できるということでしょう?自分は自分でいいんだと思えるところからしか、オリジナルなものは出てこないと思う。」

夫「オリジナルなものであふれている場所は、人を自由にしますからね。」